竹仙坊日月抄

トレイルランニング中心の山行記やレース記、その他雑感が主です。藤沢周平が好きです。

私の空はー『海をあげる』(著・上間陽子)に寄せて

先日『海をあげる』(著・上間陽子)の感想文で、私がこの本を読んで泣いたとしたら、流すだろう涙は罪悪感を含んでいると思うという話をしました。
https://chikusendobo.hatenadiary.jp/entry/2021/08/12/185711
その罪悪感には、私の故郷の空と土地にまつわる二通りあるのですが、まずは空の話からしたいと思います。
私が生まれ育った千葉市の埋め立て地(美浜区)の上空は、羽田空港への着陸進入経路の一つで、私が小さな頃から、飛行機が頻繁に上空を飛んでいるのが普通のことでした。
上空といっても遥か彼方ではなく、機種とか航空会社が識別できて、飛行音が普通に聞こえるくらいの高さです。
普通とはどれくらいかと言われたら、どれくらいなんだろうとは思いますが、小学生が聞いてうるさいとは思わないくらい、学校でほとんど気にならないくらいなものでした。
そういう土地に育ったので、家の上空を飛行機が飛んでいるのは普通のことなのだと思っていたのですが、最近になって、それが普通なわけではないことを知りました。

2020年から、私が今住んでいる東京23区の北の辺境の上空から都心にかけての上空が、新たに羽田空港への進入経路になりました。
ちょうど、私の住む街の上空を飛んでいて、私にとっては懐かしい光景が帰ってきたような感覚です。
この空を飛ぶのです。
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ただ、そういえば、よく思い返してみたら、18歳で故郷を離れて以来、住んでいる街の上空を飛行機が普通に飛んでいるってことはなかったな、ということに気がつきました。
飛行機が街の上空を飛んでいるのは万人にとって普通の状況ではないことが、私にはわかっていなかったのです。
それがわかったのは、羽田空港の進入経路追加に対しての反対運動が、私の住む街で起きていたからです。
その運動には近所の飲み屋でよく会う知り合いが参加していたので、よくその話を聞いていたのですが、反対の理由は主に騒音や落下物への懸念と不安というもので、まあ、そういうことはよくあることだよなと思っていました。
私は同じくこの街の住民ではありますが、東京とはいえ北の辺境のこの街では、都心方面ほど飛行機の高度が低くないので、私にとっては大きな問題と思うことができませんでした。
先に書いた通り、私の故郷では飛行機が上空を飛んでいるのは普通のことで、むしろ空港がある東京都の上空をこれまで飛行機が飛んでいなかったことの方が驚きでした。
なんで今まで飛んでなかったんだよ?
反語として、そう思ったのです。

もちろん、東京都でも羽田空港の近所や、横田基地近辺に関しては別の問題だと思います。
特に横田基地のような治外法権扱いの軍用地とは、同じ扱いにすることはできません。
ただ、空港関係では羽田空港の進入経路のみならず成田空港問題(土地の強制収容に起因する三里塚闘争)まで引き受けてきた千葉県の出身者としては「今まで全て千葉に押し付けてきたんだから、これぐらい引き受けるのは当たり前だろ」くらいの気持ちでした。
空路の負担はこれまで千葉県民が負ってきて、東京都民はこれまで免除されてきていました。
そもそも東京都民はこの問題に限らず、自分達が受けている恩恵に無自覚だと思います。
かくいう私も今は東京都民ですが、土着の東京都民が、私にとって「普通」だったことを受け入れられないとしていることに対して、怒りを覚えたのです。
言葉が過ぎるかもしれませんが、今でも空を見上げるたびに、「こんなの普通だよ。何甘えたこと言ってんだ」と思わなくはないのです。
その気持ちにはもちろん、千葉人の東京人に対するルサンチマンが多分に含まれていて、同時に、これまでの千葉人の負担を空港の当事者である東京都民にも負わせることができたという、屈折した満足感が表れています。

しかし、『海をあげる』(著・上間陽子)の普天間基地に関する文章を読むにつれ、私が抱いているこの土着の東京都民に対する怒りは、本当は彼らに向けられるべきものではないのだ、という思いが湧いてきました。
普天間基地の米軍機が巻き起こす害悪は、私の故郷や、昨年から新たに東京都民のものになった負担と比べたら、けた違いにひどいものなのだと思います。
外国軍機が無秩序に空を飛ぶ普天間と、厳しく管制された民間機が上空を通過する千葉や東京とでは、飛行機が上空を飛んでいることによる被害は、比較の対象にならないくらいのものであることは理解できます。
ただ、それと同時に、自分の望まないことが自分の上空で起こることに対する不安や不満、怒りは、誰しもが等分に感じるものであるはずなのです。
「こんなの普通だよ」の言葉で済ませてしまおうとしていた自分は、被害者である自分を忘れて、加害者の論理を内面化しているのではないか。
THE BLUE HEARTSのTRAIN-TRAINの歌詞にある「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」を、私はそのまま行ってしまっていたわけなのです。
私は、私の街の上空を普通に飛行機が飛んでいる状況を苦痛とは思いませんでしたし、今でも苦痛ではありません。
それでも、私が感じることのなかった苦痛は、誰かにとっては苦痛であり、その被害の程度を相対化することで解決できるものではないのです。
他者の痛みを相対化して問題ないものとして捨て去ってしまう心の動きは、控え目に言って乱暴で、普通に言って暴力なのです。
私には、私自身が自覚できなかった痛みがあったとしても、それを感じる人達に対して、私が怒りを覚える筋合いはないのです。
負担を押し付けられた側に怒るのではなく、押し付ける側にその怒りを向けるべきなのです。

それは「普通」にとっても言えることで、端的に言えば、普通だからといって、受忍できない普通があるということ。
その普通が元々普通でなかった人たちにとっては、私にとっての普通は、苦痛でしかないのかもしれない。
知っているからこそ想像力が及ばない、という領域があることに、私はもっと自覚的であるべきなのです。