竹仙坊日月抄

トレイルランニング中心の山行記やレース記、その他雑感が主です。藤沢周平が好きです。

竹仙坊骨折抄2018年4月10~23日入院治療編

あきる野市の馬頭刈尾根で転落して左上腕骨を骨折した話の続編です。
4月7日の事故から6週間近く経ちましたが、折ったあたりは時折疼く程度です。
今回は入院から手術を経て退院するまでを振り返ってみることにします。
前回までは事故編*と搬送編**にまとめてあります。
*事故編
http://chikusendobo.hatenadiary.jp/entry/2018/04/22/063505
**搬送編
http://chikusendobo.hatenadiary.jp/entry/2018/05/05/091433

4月7日に骨折して搬送され、応急措置の後に再搬送された帝京大学病院で、左上腕骨骨幹部骨折の診断を受けました。
上腕骨骨幹部とは二の腕の骨の真ん中あたりのことで、そこが螺旋状に折れているとのことでした。
4月10日(火)の再診にて、入院しての手術がお奨めであるとの説明を改めて受けました。
折れた骨同士の間隔が大きめに離れていて、固定のみでは修復するのが難しいとのことでした。
また、手術の方が復帰までの期間が短く済むとのこともあり、二つ返事でOK。
準備は整えてきていたので、その場で即入院しました。

入院後に手術日が4月12日(木)と決まり、当日は母に来てもらいました。
私にとっては人生2度目の手術でしたが、前回の2001年に左肩を手術した時も力を借りています。
有り難いものです。
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母が撮影した術衣の私。
息子の術衣姿を見慣れてしまうというのはどんな気持ちなのか、機会があれば聞いてみたいと思います。
ちなみに、私の両親は入院を要する大病や大ケガに今のところ縁がなく、息子の私の方が手間をかけてばかりです。
今のところ、私は不孝息子以外の何者でもないのです。

手術は救急外来で診察してくれた若い医師が執刀してくれたようです。
骨折部位は元通りに修復された後、ボルト1本、プレート1枚とそれを固定するネジ6本が埋め込まれました。
手術自体は1時間半くらいで終わったそうです。
また、今回の手術は全身麻酔でした。
全身麻酔も人生2度目でしたが、前回は覚めるときに口の中に強烈な苦味を感じて非常に不快だった記憶があります。
今回も麻酔から覚めるときは苦味を覚悟していたのですが、予想に反して全く苦味を感じず、嬉しくも拍子抜けしました。
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お見舞いに来てくれた友人Bさん撮影の術後の1枚です。
このときはギプスはしていないものの、包帯でグルグル巻きになった上に、ドレーンチューブが左腕に入りっぱなしになっています。
術後の2,3日は痛みに苦しみましたが、4日目になって急に痛みが引いていきました。
ドレーンチューブも4日目の夜に抜いてもらえました。
その後は、入院生活もだんだんと楽になっていきました。

手術の翌日4月13日(金)から左腕のリハビリテーションが始まりました。
帝京病院では、腕の障害は作業療法士が担当するようです。
私の場合、骨折と、手術でチタンプレートを埋め込むために上腕の筋肉を割いたことによる人工的な肉離れの影響で、左腕の曲げ伸ばしができなくなっていました。
入院中は日曜を除いて毎日リハビリの時間がありました。
私は経過がよかったようで、毎回療法士さんにほめられたのはとてもいい気分でした。
私は39歳ですが、この年齢になると普段は滅多にほめられることがありません。
入院してよかったなと思えることの一つでした。
「ほめて伸ばす」は最近は定番の指導法だと思いますが、このことについては経験的に正しいと思います。
全てにおいて誰もがそうなるとは限りませんが、私の左腕に関しては、ほめられて伸びるようになりました。
伸びるの意味、若干ずれてますけど。

痛みが引いて来ると出歩くのも苦にならなくなるもので、4月19日には外出することができ、帰宅して荷物整理をした後、会社に寄ってから病院に戻りました。
久しぶりの外の世界は少し疲れました。
患者は病院の中では守られている存在なのだなと、認識を新たにしました。
この頃になると腕の曲げ伸ばしも大分できるようになり、ほめられて伸びるを日々体感することができました。
元々私の腕は平均よりもよく伸びる腕だったようで、そこまでは伸びていないものの、平均的なレベルに近いところまでは回復してきました。
早くからリハビリを始めることは、本当に大事だと思います。

退院は4月23日(月)、14泊15日の入院でした。
治療は上手くいったようで、純粋によかったと思います。
退院後の外来で術後のレントゲン写真を見ましたが、骨の継ぎ目がパッと見だとわからないくらい、きれいな修復がされていました。
後は、この骨が完全につながるまで養生するだけです。
新たなケガに気を付けながら、日々を無事に過ごして行きたいと考えています。

なお、私自身17年ぶりの入院生活は、なかなか面白いものでした。
それはまた別の機会***にまとめたいと思います。
***入院生活編
http://chikusendobo.hatenadiary.jp/entry/2018/05/29/201648

竹仙坊骨折抄2018年4月7日搬送編

2018年4月7日にあきる野市の馬頭刈尾根を瀬音の湯方面に下っている最中に転落し、左上腕骨骨幹部骨折をしました。
事故から下山までの経過は以下にまとめてあります。
*事故編
http://chikusendobo.hatenadiary.jp/entry/2018/04/22/063505
ここでは、下山後に救急車で搬送された病院で応急処置を受けてから、自宅近所の大学病院に「再搬送」された経緯をまとめたいと思います。

下山したのは地名で言えばあきる野市養沢で、乙津浄水場の至近にあるお宅に助けてもらいました。
同行していた友人Bさんが電話を貸してもらい救急に通報、たまたま近くにいた檜原村の救急隊が10分ほどで駆けつけて来てくれました。
この辺りは時間がかかるときには通報から30~40分かかることがあると聞いていたので、これは運が良かったとしか言いようがありません。
救急車に乗り込んでから搬送先を決める際、ケガの状況を色々と聞かれました。
救急隊にとっては、頭を打ってるか打ってないかが最も重要な情報のようで、2,3回確認された記憶があります。
幸い頭は打っておらず、大きな出血もなかったので、1秒を争うような状況ではありませんでした。
救急隊が選んでくれた搬送先は、八王子市の高月整形外科病院でした。
この病院はその名の通り整形外科の専門病院で、救急診療も積極的に行っているところでした。
また、東京手の外科・ スポーツ医学研究所という施設も併設して力を入れていて、腕を折った私が搬送されるにはうってつけの病院でした。
私の状況から、救命センター的な所に行く必要がないと判断されたのでしょう。
そこから、一番ふさわしい病院に搬送しようということだったのだと思います。
私は大人になってから救急搬送されたのは初めてでしたが、救急隊の仕事を目の当たりにできてよかったと思います。
私の搬送にあたってくれた檜原村の救急隊の方々は、親切な上にテキパキしていてかつ丁寧な仕事ぶりで、とても好感の持てる方々でした。
ありがとうございました。

搬送された先の高月整形外科病院でも頭を打ってないか確認されました。
確認が終わると、救急スペースのような所でしばらく待機することになりました。
ここまでは、左上腕骨を折った「みたい」という仮定のもとに行動してきましたが、病院では診断を確定し処置を受けなくてはなりません。
診断のためにはレントゲンを撮らなくてはならないのですが、これが一番の苦痛でした。
効果的に撮影するためには左腕を動かさなくてはならないのですが、動かすとひどい痛みが体を走ります。
けっこう大事なことなので二度言いますが、一連の診療の流れのなかでレントゲン撮影が一番の苦痛だと思います。
思わず涙が流れてしまっていたのですが、放射線技師の方が「痛いですよね。ごめんなさい」といたわりの言葉をかけてくれたことが心に沁みました。
まあ、いたわってくれても痛みは和らがないのがどうしようもない現実なのですが…。
また、この病院では看護師さんの仕事ぶりに感心してしまいました。
処置の間に担当してくれた方は、テキパキの3乗くらいのスピード感のある仕事ぶりでした。
患者対応も付き添いのBさんへの助言も、非常に的確なものでした。
ストレッチャーに寝転がりながら、プロフェッショナルってこういう人のことを言うんだろうな、なんてぼんやり考えていました。
高月整形外科病院では、救急対応、診断、その後のギプスシーネによる固定と、総勢3人の医師による診療を受けました。
患者も多く忙しい時間帯だったと思いますが、丁寧に診てもらえたのではないかと思います。
15時過ぎにケガをしてからギプスで固定するまでで2時間くらいだったでしょうか。
鎮痛薬とギプス固定のおかげで大分落ち着いてきました。

高月整形外科病院では、応急処置の後に、恐らく入院と手術が必要になるのではないかという予想を医師から告げられました。
そのまま入院という選択肢もあったのかもしれませんが、何分自宅から遠いこともあり、自宅近くでの再診をすすめられました。
紹介状をもらって帰宅ということになるのですが、先の看護師さんから誰でもいいから車で迎えに来てもらった方がよいと強く勧められました。
こういうことを頼める友人は、私にはAさんしかいません。
私は痛みでぐったりしてて動けないので、BさんにAさんに連絡してもらいました。
Aさんは快く引き受けてくれて、車を飛ばして奥さんと一緒に駆けつけて来てくれました。
本当にありがたかったです。
また、遠慮していた私たちを半ば強引に説得してくれた看護師さんにも頭が下がります。
Aさんの車で、高月整形外科病院を19時ごろに出発しました。

当初は自宅に帰るつもりでした。
高月整形外科病院でも、応急処置はしてあるので週明けに近所の病院に行けばよいとのことだったので、とりあえず帰宅しようと思っていたのです。
ところが、Aさんと奥さんに、まだ何があるかわからないからこのまま近所の病院にいった方がよいとのアドバイスをもらって、方針を変更しました。
このアドバイスが、後の治療の進展に良い影響を与えました。
Bさんが私の近所の病院を調べてくれたところ、大学病院に自宅からバスで10分ほどで行けることがわかりました。
そのアクセスのよさが決め手で、帝京大学医学部附属病院に送ってもらうことにしました。
こうして再搬送された帝京大学病院で再度診察を受けました。
レントゲン撮影の苦痛も再度味わいました。
それはもう仕方がないのはわかっていますが、骨折に関する診療行為で一番痛いのはレントゲン撮影である、これは声を大にして言いたいと思います。
帝京大学病院の医師からも、恐らく手術が必要になると再度言い渡されました。
次の火曜日に方針を確定させるので、入院の準備をして来院してほしいとのことでした。
全てが終わって帰宅したのは23時を過ぎていましたが、治療の予定が決まったことには安心感がありました。

私の入院した帝京大学病院には外傷センターという外傷専門のユニットがあり、特に救急的な外傷による骨折の手術経験が豊富です。
ただ、再搬送されたときはこのことを全然知りませんでした。
後で詳しく調べ直した際、図らずも適切な病院を導かれるように選択していたことに、何とも言えない運のよさを感じました。
Aさんと奥さんのアドバイスがなければ、そのまま帰宅していて治療の開始が遅れるところでした。
Bさんが調べてくれなければ、結果的にとはいえ適切な病院に行くことができませんでした。
この3人には感謝しています。
そして、不幸中の幸いというのは至るところにあるのだなと改めて思います。
私の経験が普遍的に正しいものであるとは思いませんが、一つの不幸中の幸いの事例として記録しておきたいと思います。

以上のような経緯で、帝京大学病院に入院して骨折の手術をすることとなりました。
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帝京大学病院はラベンダーが花盛りで、富良野の風景を思い出させられました。
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まあ、富良野には行ったことがないので、絵葉書的なあの風景ですが…。
帝京大学病院はきれいな病院で、その点、入院生活は快適でした。
手術*と入院生活**については、また別の機会にまとめたいと思います。
*入院治療編
http://chikusendobo.hatenadiary.jp/entry/2018/05/21/125130
**入院生活編
http://chikusendobo.hatenadiary.jp/entry/2018/05/29/201648

ここに帰りたいーUTMF/STY2018応援感想記

STY2018に参加した友人Bさんの応援で、ULTRA-TRAIL Mt.FUJIのフィニッシュ会場、河口湖の大池公園に行ってきました。
本来ならばサポーターとして各エイドを回る予定でしたが、3週間前に左上腕骨を骨折してしまったため、サポートができなくなってしまいました。
それなので、フィニッシュの応援のみしてきました。

この4月28日、大池公園はよく晴れていました。
ラストストレートから見える富士山。
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選手は富士山に迎えられた後に、右折してフィニッシュゲートへのビクトリーロードに入ります。
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このフィニッシュゲートを見ると、UTMF2016で雨の朝霧高原にフィニッシュしたときのことを思い出します。
感慨深いものがありました。
Bさんは8:00のSTY制限時刻ギリギリフィニッシュというレースプランを組んでいました。
しかし、この日は順調に関門を突破しながら記録を伸ばし、大池公園には40分ほどの余裕を持って到着しました。
Bさんはロングディスタンスのトレイルレースには初挑戦でしたが、地道に練習を積んだ成果で、見事に完走しました。
その過程も含めて、純粋に素晴らしいと思います。
そして、羨ましいなと思いました。

私がUTMF2016でフィニッシュした朝霧高原道の駅は、荒天短縮の結果、急きょ設けられたフィニッシュでした。
急きょにしてはフィニッシュ後の飲食ブースが充実していて、とても快適なフィニッシュ地点となっていました。
そのことには感心しています。
UTMF2016が短縮になったこと自体にも、不満があるわけではありません。
ただ、荒天でスタートした判断については疑問を持っています。
http://chikusendobo.hatenadiary.jp/entry/2017/08/18/203242
それでも、荒天短縮UTMFという特殊状況を乗り切ることができたという、サバイバーとしての満足感を覚えていました。
そして、無事にレースを終えるために全力を尽くした実行委員会には感謝しています。

ただこの日、この大池公園で繰り広げられていたフィニッシュの光景を目にしたことで、自分の中で押さえこんでいた感情が甦りました。
それは、本当はここに帰ってくるはずだったのに、という悲しみに似た思いです。
翌日にUTMFのフィニッシュの応援もしたことで、より強いものになりました。
色々なレースで出会った方々のフィニッシュを迎えて、自分のことのように嬉しくて喜ばしい気持ちと抱き合わせに、ちょっと悲しかったのです。
やはり私は、私のUTMFをこの大池公園でフィニッシュしたかったのです。
願わくば、この日のようによく晴れて、富士山のきれいな大池公園に帰ってきたかったのです。
次があるじゃないかとは思うのですが、骨折してしまったため、次があるかがわかりません。
いつ心身ともに快復して、トレイルランニングに復帰できるかが全くわかりません。
でもやはりいつかは、UTMFのフィニッシュをこの大池公園で迎えないことには、一生の心残りになるのでしょう。
そんな気持ちに気がついてしまいました。
まだ終わらないのだなとか、まだ終われないのだなとか。
悲しくもあり楽しくもあります。

Dylan Bowman選手の、連覇へのビクトリーラン。
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祝福する富士山。
今年は28日のSTYのテールエンダーやUTMFトップのフィニッシュの時も、翌29日のUTMFのテールエンダーのフィニッシュの時も快晴で、富士山は誰をも等しく祝福していました。
いつか私も、よく晴れた大池公園で富士山に祝福されたいなと思います。
やっぱり、ここに帰りたいんだな。