竹仙坊日月抄

トレイルランニング中心の山行記やレース記、その他雑感が主です。藤沢周平が好きです。

天候の記憶と記録ーFTR100K2017

2017年11月18日のFTR100Kの参加者として、当日の天候や路面状況につき、ここに私の記憶を記録として残しておきたいと思います。
滑落事故の直接情報ではありませんが、今後の検証のために、周辺情報として残しておきたいと思います。
事故直後のネット情報の中で明らかな誤りを含む言説があり、明確に否定しておかなければならないと感じたことがこの記事を書く動機の一部になっています。
つまり、ここから先の内容には、そういうバイアスがかかっているのです。
その点は先におことわりしておきます。

事故直後に、こんな天候でレースを開催したことが一因ではないか、という主旨の言説が見受けられましたが、「こんな天候」とは一体何を指して言っていたのでしょうか。
当日の秩父地方の天候について、前日までの予報では雨もしくはみぞれでしたが、ふたを開けてみれば、雨もみぞれも降りませんでした。
気象庁の過去天気のサイトを私はよく利用しますが、2017年11月18日の秩父市には降雨も降雪も記録されていません。
それは秩父の市街地だけでなく、山もまた然りだと思います。
私の場合、事故現場近くの大持山に到着したのは8:50頃でしたが、肌寒い曇天ではあるものの、この時点で一滴の雨も感じませんでした。
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この写真では雨が降っていないことを完全に証明することはできませんが、見える通りの曇天でしかありませんでした。
こんな天候=肌寒い曇天です。
もし、天気予報だけを見て現地の天候が雨やみぞれだったに違いないという憶測で書いていたのなら、それは誤りであると私は思います。
肌寒い曇天ではトレランレースを開催すべきでないという主張であるならば、私は反対意見ではありますが、主張自体は否定はしません。
でも、私の憶測では、予報通りの雨やみぞれを想定した言説であると思います。
その私の憶測に基づけば、こんな天候でレースを開催したことが一因であるという言説は、誤りであると思います。

なぜ私がそういう憶測を持ったかと言うと、同じ記事の中で、山道が雨で柔らかくなっているという旨の記述が見受けられたことによります。
それが2017年11月18日の当該エリアのことを指しているのなら、その指摘は当たらないと私は思っています。
これについては写真はないのですが、今回私が通過したエリア(スタート・道の駅ちちぶ~A3名栗・さわらびの湯)で、雨でトレイルが柔らかくなっているような場所は、全くと言っていいほど印象に残りませんでした。
ただし、2015年、2016年のFTR100Kでは少なからずそういう場所はありました。
だからこそ今回は逆に、足元の山道がこれまでになくしっかりしているなという印象がありました。
雨で山道が柔らかくなっている、に関しては、私の記憶によれば、2015年や2016年を指して言っているのなら正しい指摘だと思います。
ただし、今回の事故と関連する文脈で述べることとしては、ズレているなと思います。
ズレているのは時間軸です。
1年あるいは2年ズレています。
なお、雨天時のトレランレースでトレイルを崩壊させてしまうことに関する懸念は、私も同様に感じるものです。
2016年のUTMFとFTRに参加した私としては、登山道を泥沼に変えた一味の一人として、罪悪感を持ち合わせています。
でも、それを今回の滑落事故に関連する文脈で持ち出すことは、やはり、ズレていると私は思います。

ここまで書いてきてもなお、本当に何が言いたいのかということが、私自身よくわかっていません。
ただ、確実に言えるのは、2017年11月18日の秩父・大持山周辺の天候が悪天候、具体的には雨やみぞれですが、悪天候であったとする言説は誤りです。
天気予報は確かに雨やみぞれでした。
それは、その予報に基づいてレースの準備をした私もよく知るところです。
でも、当日の現地は肌寒い曇天でした。
そういう根拠に基づいて、事故の一因を天候に求めることが妥当であるとは、私にはこの時点で考えることはできません。
事故直後は情報が少ないので、言説が不正確であることは、正直な話、否めないことはわかります。
今の私が、同好の士を亡くした喪失感によって、感情的になっていることも否めません。
でも、だからこそ、根拠に乏しい言説を看過することができないのです。
この事故には、これから様々な検証が行われると思いますが、検証という行為は、公的なものだけではなく、個人としての振り返りや総括もまた検証であると私は考えています。
だからこそ、私の理路では、現地の天候についての誤った言説を否定しておかなければならなかったのです。
今回の事故は、私の身に起きてもおかしくないことで、自分の事として受け止めています。
だからこそ、私の記憶と記録を書き残さなければならなかったのです。

そして検証という行為には、地に足の着いた、落ち着いた言葉が必要であることも理解はしています。
その点で、この記事を書いている私は、落ち着きを欠いているのだと思います。
自分の事として受け止めて、それでも荒ぶってしまう私は、まだまだ全然、修行が足りていないのだと私でも思います。
できれば荒ぶることなく、地に足を着けた記録としての記事を書けるように、いつかはなりたいと思います。