竹仙坊日月抄

トレイルランニング中心の山行記やレース記、その他雑感が主です。藤沢周平が好きです。

見えないものが見えるーハセツネ2017日本山岳耐久レースボランティアスタッフ雑感

10月8日から9日にかけて行われた、日本山岳耐久レース・ハセツネ2017に、ボランティアスタッフとして参加してきました。
去年まで4年連続選手で出場していましたが、スタッフ参加は初めてです。
今回は詳細をレポートするよりも、一つのテーマだけ考えてみたいと思います。
見えないものが見えると言っても、幽霊や妖怪や山村貞子の類いの話ではありません。
そもそもあの人たち、見えたら困ります。
見えないものが見える、とは「スタッフには見えないものが選手には見える」、もしくはその逆も然りということです。

深夜に誘導をしていると、私の配置場所に向かってくる選手がなぜか、道のない方に進んで行くということが多くありました。
私のいた場所から声をかけて元のコースに戻ってもらうものの、後から来る選手も同じようにコース外の立ち木に向かおうとしてしまいます。
今年のハセツネは夜に霧が出て非常に視界が悪かったのですが、それにしても外れすぎです。
立ち木の先には急な斜面もあるので、これ以上見過ごすわけにはいかないなと思い、選手が外れるポイントに行ってみると、意外なことがわかりました。
そこから見ると確かに、立ち木の方に進めるように思えてしまうのです。
具体的には、幅の広い階段の脇に道がついていて、階段を嫌った選手がその道を進むと、まっすぐ立ち木に吸い込まれるように進んでしまうのですが、道の傾斜がまた絶妙に選手の体を立ち木の方に向かわせてしまうのです。
特に、足下を向いていて前を見ずに進んできた選手は、そこで道が狭くなっていることに気づかないまま進んでしまっているようでした。
スタッフの側から見れば選手の進む先に道がないことしか見えないのですが、選手には道が続いているように見えなくもないということは、実際にその場に立つまではわかりませんでした。
このときに選手とスタッフでは見えているものが違うんだなということを強く感じました。
これは当たり前のことかもしれませんが、スタッフをやらなければ自覚することはなかったのかもしれないと思っています。
とりあえずコースを外れそうになるポイントにスタッフが立って、選手が立ち木の先の斜面方向に進めないように誘導することにしました。
スタッフが階段脇に立って選手の視界をふさいで、選手に見えている道を消しにかかったのです。
夜間はそのように対応しましたが、日が登ったあとはその必要がなくなりました。
明るくなったら本来のコースがよく見えて、選手からその誤った道が見えなくなったようです。

こうした見えるものの違いは、目指すもの、目的の違いに由来するのかと思います。
選手の目的はフィニッシュ目指して先に進むこと、スタッフの目的は選手の安全確保です。
選手は基本的に、視線を前と足元に向けて進んでいくと思います。
見えているのは前と足下にある自分の進路です。
スタッフの視線は、基本的に選手に向けられています。
視線の向きが逆で、見ている対象も異なります。
端的に言えば、選手はコースを見ていますが、スタッフは選手を見ています。
見ているものが違えば、見えるものも違います。
それが当然なことはわかっているのですが、現場ではその場の一体感のようなものに包まれてしまい、つい選手と自分を同一視してしまいがちです。
しかも、私にとっては4年続けて選手で出ていたレースで、かたやスタッフ経験はゼロ、気持ちは選手に近いのです。
通過していく選手と同じような気持ちになることも、数多くありました。
それでも、見えるものが違うということは、スタッフと選手の大きな違いなのです。
スタッフには、見えた選手の様子から判断して、選手の安全を確保する役割があります。
ひるがえって、選手の役割はなんでしょうか。
私であれば「無事に家に帰る」なのですが、これは個々の選手によって異なるでしょう。
しかし大切なのは、役割の違い、目的の違い、見えるものの違い、といった諸々の違いが、トレランレースの現場に当たり前のようにあるということだと思います。
だからこそ、お互いの見えないものが見えるようになるのではないでしょうか。
細かく言えば、お互いの立場から見えるものを持ち寄ることで、お互いに見えないものが見えるようになる、ということなのかなと思います。
選手と一体感を持って楽しむこともスタッフにはできると思いますが、私はそれよりも、違う役割と目的を持つものが同じ場を共有して楽しむこと、そちらに心ひかれます。

だからといって、みんな違ってみんないい(by相田みつを)、ということが言いたいわけでは断じてないのです。
みんな違ってみんないい、に感じられる、同調圧力からの解放や個性の尊重といった価値観には共感しますし、大切なことだとも思います。
でも私はむしろ、社会生活においては、違わなくてはならない局面があるのかもしれない、と考えています。
それは同調圧力とは逆のベクトルの圧力なのかもしれませんが、その場の誰もが全く同じになることを否定することが、恐らくはどんなときでも必要であるのではないかと私は思います。
それはやはり、一人一人のお互いに見えないものを、お互いに見えるようにするためです。
誰かと私の違いがなければ、お互いに見えないものを見ることはできません。
その違いがなければ、そこに助け合いや新しい知見は生まれないのです。
もっと言えば、違いがなければ愛も生まれません。
なんてな。(byいかりや長介in踊る大捜査線

やはり、愛については言い過ぎだと自分でも思います。
愛なんていつでも、どんなときも、生まれるときには生まれるものですよ、たぶん。
これも言い過ぎたかな…。
でも、まさか自分が相田みつをの言葉をブログで検証する日が来るとは全く思っていませんでしたが、そこは図らずもディス・イズ・ザ・デイ。(by津村記久子
みんな違ってちょうだい。(by竹仙坊)
それにしても、いったい何を言ってるんだ今日の私は…。
ハセツネで走れなかった憂さを、ここで暴走することで晴らそうとしているのでしょうか。
もう、他人事ならば、その辺が見えるのかもしれないのに…。

気持ちが少し落ち着いたところで、夜間誘導用のライトセーバーの写真を供覧いたします。
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スタッフにとっては単なる仕事道具ですが、選手のとき、深夜の山中でこれが見えた時は本当に安心したよな、なんて、これを手にしながら思っていました。
今まで本当に、散々ボランティアスタッフのお世話になってきた分、今回ほんの少しでも人様のお役に立っていたのならば幸いなのですが、その姿は私自身の目では見えないものです。
でも、自分の姿など見えなくてもいいのかもしれません。
自分とは違う誰かには、必ず見えています。
なんてな。