竹仙坊日月抄

トレイルランニング中心の山行記やレース記、その他雑感です。藤沢周平が好きです。

百日紅

ひとつ前に投稿した記事が、私がこのブログを書き始めてからちょうど100本目にあたる記事となりました。
節目の数字ではあるのですが、節目とは切れ目になりやすいものでもあるような気がしていて、なるべく早くこの数字から脱したいと思っていました。
しかし、新鮮な山ネタがちょうどなかったこともあり、なかなか101本目が書き出せませんでした。
どうしたもんだろと思っていたら、好きな花のことを思い出しました。
山ネタではない上に、文章は長く、内容は私の自意識が過剰で、情報としての価値はほとんどないと思いますが、とにかく、節目から一歩踏み出したいと思います。

この季節になると私は、朝、駅に向かう道のりが少しだけ楽しくなります。
百日紅サルスベリ)の花が咲いているからです。
駅のロータリーから延びた道が百日紅の並木になっていて、家から駅までの間ほぼずっと花を眺めながら歩くことができます。
今年は早い木は6月末ごろからポツポツ咲き始めていて、今はどの木も花盛りを迎えています。
百日紅の何が好きかと問われると、答えられる範囲で言えばその生命力でしょうか。
梅雨の真っ盛りから悠々と一夏を越え秋が本番を迎える少し前まで咲き続ける、あの蕩尽とも言えるような生命力の発露に心惹かれます。
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そして、人間もまた生命力に溢れる夏という時期を、百日紅の花とともに過ごすことになります。
私は、百日紅の花に私自身の夏を投影しているのでしょう。

私が百日紅を好きになったのは、15,6年前に知人宅の庭にあった百日紅の木に出会ってからのことだと思います。
その知人の家は私が育った東京湾の埋め立て地にありますが、百日紅の木は庭の角で濃いピンクの花を咲き誇らせていました。
8月の青い空とピンク色の花が、過剰なまでに自己主張していたあの色彩を、私は忘れることができないのです。
だからでしょうか、百日紅といっても、白や淡いピンクの花をつける木にはさほど関心はありません。
どうやら私は、あの花のどぎついまで濃いピンク色に強烈な生命力を感じたようなのです。
濃ピンクの百日紅の花が、紺に近いまでに深い青空の下に咲き誇っている姿は、私の思い描く百日紅イデアのようなものであって、夏のイデアのようなものなのです。
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現実の色はもちろんイデアのそれよりも数段弱いのですが、私の夏にはこの色彩が必要なのです。
色彩もそうですが、花の咲き方にもまた生命力の強さを感じます。
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小さな原色の花が次から次へと湧いてくるように咲き続け、丸々とした緑の実を次から次へと結び続ける、過剰なまでの生命力に感心しています。
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たぶん私は、夏の百日紅が見せる、溢れかえるような生命力の表現の過剰さに、畏敬の念を深く覚えているのだと思います。

そして、私自身はそうした表現が過剰な人間ではないため、余計に憧れるのだと思います。
過剰な表現には、好き嫌いがあって、もちろん良し悪しがあります。
ただ、良し悪しの判断を保留してみると、同じような考えや思いを持っていても、何らかの事情で表現ができない誰かにとっては、その過剰さが救いになることもあります。
私は、抽象的にしか言えないのが残念ですが、私の友人が見せる過剰なまでの生命力の表現に救われたことが多々あります。
そうした救いがあったから、私の今があるのだと思います。
それは百日紅の過剰な生命力に似ています。
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昨年、UTMF2016に向けたトレーニング山行を繰り返した武蔵五日市の百日紅です。
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同じ東京なのに、私の住む街の百日紅よりも色彩が強いような気がしていますが、でも、それを競うのは野暮なのかもしれません。
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2015年の夏に訪れたアメリカはワシントンDCの百日紅もまた、濃く、
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過剰なまでに咲き誇っていました。
所変われど、生命力は同じものなのです。
それぞれのもて余した生命力を、過剰なまでに発露する夏。
百日紅にはいつも、夏の生き方を教えてもらっているような気がします。